三月日記

やよいです。趣味や好きなものが特にないな、そんな方に向けたつぶやききを綴っております…

可笑しい、



どうも、彌生です。

 

お久しぶりです。今日はまぁ、呟きです。

こんな人間もいるのだなぁ、ははって感じに思っていただけたら幸いです。

 

 

心配しなくていい。

もともと、頭がおかしいのかもしれない。

 

頭がおかしいとは何だ。

 

おかしいって何なんだ。

おかしいにはいろいろ意味がある。

 

私のものは笑える、滑稽だということ

つまり、``可笑しさ‘‘ということ。可愛いね。

 

本人は、狂っている異常だ

という意味合いで言いたかったのだけれど、

まぁそこまでのおかしさではなっかたらしい。

 

これといって書くことはない。

ためになる話など、一つもない。

そう思っているのは私だけかもしれない。

 

今日、授業を休んだ。

 

さぼった。

 

私一人休んでも何も変わらない。

学費の無駄遣い。

両親は今日も学校に行っていると思っている。

そのために労働していただいている。

だけど、私は家にいる。

 

家にいるんだ。

 

ついに、終わりだ。

逃げた。

逃げた。

どうして逃げた?そもそも、何から逃げたんだろう。

 

別に、何からも逃げちゃいない。

 

私は生きている。

生きているから逃げていないのか。

 

いや、それは違う。

 

生きていることに感謝して、今日も息を吸い、

今、この瞬間に戻りたいと思って

戻ってきたかもしれない私のために生きている。

 

何が終わりなんだろう。

何を基準に終わりだと言っているのだろう。

落ちるところまで落ちている、と言いたいだけの人間なんだ。

 

私は、ただ今日も生きている。

 

私の脳は

こんなにも脳内でぐるぐると、思考を巡らせるくらいならば、

なにか一つでも学びを得たらどうだと言っている。

 

じっとしていては何にもならないとささやいている。

 

全てが面倒であると思っている。

 

そのくせ、食欲には忠実で、キーボードを打つ指先は止まらない。

 

さっきまで、いっそのこと傷つけてしまおうか

と思っていた左手は正常に動いている。

 

‘‘いっそのこと‘‘

この言葉は誰に教えられたんだろう。

 

 

傷つけたいと思ったけれど、

 

左手に傷を負ったとして、

治療費も交通費も、そこにかける時間も勿体ないのだ。

 

無駄なのだ。

 

私が故意に傷つけた左の傷のせいで一人の人間の仕事を増やす。

もっと早急な治療を必要としている人間の障害物になる。

 

そんなことしたら、

動かなくなってしまった父の左手から呪われる。

 

そう思ってやめた。

 

私のせいで、と思っているけど

実際そんなに私という人間一人に世の中は執着していない。

 

あ、だけど私の友達くらいは家族くらいは、

私という存在に執着し、愛着をもっていてくれるかもしれない。

 

 

あの人の、すべてを知りたいだなんて

思ったことはない。

 

自分のすべてを知りたいなんて

思ったこともない。

 

私に執着する人間など一人もいない。

執着したいと思える人間もいない。

 

 

全てなんて知る必要もないし、知れるはずもない。

こんな決めつけもよくないのかもしれない。

 

決めつけることが悪いと、思っているのは私だけなのかもしれない。

 

もうわからない。

 

わからないって最高に意思のない言葉で、

自分の個性を殺している言葉だと、そう思う。

 

うんうん、わかる

 

しか言わない人間も同じく

 

個性がなくわたしにはみんな一緒に見える。

 

何をもって、わかると言っているのだろう。

わかるといっておけば会話が進むと思っているのかもしれない。

 

一番そう思いながら、わかると吐いているのは私なんだろうな。

 

 

本日も、最後までお読みくださりありがとうございました。

 

では、また。

 

 

 

 

ブログと私

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

どうも、彌生です。

今回は、私がブログを綴る理由について語りたいと思っております。

 

 

では、何故綴るのか。

それは、

 

寂しく、貪欲な人間だから。

 

毎日、誰かに話したいのです。

今日感じたこの気持ち、

一瞬だけど惚れてしまったあの人のこと、

昨日はわからなかった言葉の意味を。

 

だけど、

考えを見透かされるのが怖いから、

友人には言えなくて、

なんだか、恥ずかしいから、

家族には言えなくて、

 

いつも、自分の日記に書き留めていました。

横殴りの文字で、誰に見せることなく、ひっそりと。

 

私の日記は寂しいものです。

 

久しぶりに遡ってみると、

2023.8.05

記憶にナイ

そう、ぽつんと書いてありました。

もう、書くことに飽きていたのだな、と思う一文でした。

 

他の頁をめくれど、

あぁ、どうして自分はいつもこうなんだ

と、反芻思考を綴るばかりでした。

 

そんな日記だけど

たまに、解決策も書いてありまして、

 

気持ちが沈んだときに聴くといい音楽、

読むとよい小説の頁数、

救われた言葉。

 

全て、

反芻思考から抜け出すカギになる言葉たち。

 

そのカギは、

誰かが自分自身それ以外の人間残した言葉たちだった。

 

そう気がついて

いつの間にか、反芻思考ではなく

 

自分と、誰かのために何かを残す。

 

そんなことができたらいいなぁ、

という思考が脳内を渦巻いていました。

 

 

その何かの始まりが、このブログだったんですね。

 

自分の中だけにとどめておくには勿体ない考えを、

共有できたらいいなと、

私と同じような人間の役に立ててくれればいいなと、

そう思ってこのブログを綴っています。

 

しかし、いざ始めて見ると

書くということは簡単ではありませんでした。

 

日に日に、記事に星が光って、読み手が増え、

寂しさは埋まったけれど、もっともっと誰かに届いてほしいと思うようになりました。

 

ある日、

どういう私であれば、どんな文章を綴れば、読み手に受け入れられるのだろう。

と、考えるようになりまして。

 

その日から、パタりと

キーボードを打てなくなりました。

 

私と同じような人間のために書いていた日記は、

いつの間にか、私でない誰かに寄り添おうとする不安定な日記になっていったように思います。

 

だから、また自分の声に耳を傾け、

どんな言葉を欲しているのか静かに待っていました。

 

その言葉は、

140字の綺麗にまとまったものではなく、

15秒のキラキラした動画にまとめた収まりの良いものでもなく、

 

 

もっと長くて、曖昧な矛盾したものでした。

それでいて、私とは何なのかに向きあえるもの

 

 

寂しさは貪欲になって、

その都度、自分と向き合って

ブログを綴って、

ある日、

誰かの日常の為になった。

 

なんてことが起きるのは

ブログなんだろうなぁ。

 

 

そんな考えが今の執筆に至るのでしょう。

 

夜、寂しくなって

この日記を綴ります。

 

寂しく、貪欲な人間の

どうしようもない夜の痕跡なのです。

 

それでは、また。

 

甘苦い泡水、弾けた晩

どうも、彌生です。

みなさんいかがお過ごしかな。残暑ですな。

本日も、どうぞ宜しゅう…

 

酒を買いに。

 

その道中、

ぬるい空気を吸って

右耳に忘れられないリズムを、左耳ににぎやかな人々の声をかけていた。

 

リズムと声とがごっちゃになった。

 

融けて、合って

 

余った文字で

酔わないとやってけない日々ってなんだよ。って言葉ができた。

 

伸ばした手をひっこめる、代わりに甘苦い炭酸水を。

 

トニックなんて知らない飲料水。

 

トニックってなんだろう。

 

Tonic

 

ギリシャ語Tonos(緊張)からTone(音、調子),

Tonic(元気づけるもの)に派生したのだとか。

 

声のトーンというじゃない?声の調子で、声の張り。

健康は強さじゃない?身体と精神の、頑丈さ。

緊張したら、声は張るし、

グッと力が入るじゃない?グッと強くて丈夫なの。

 

Tonicにはいろんな意味がある。

 

音に関する意味、

 

医療的な意味、

 

そして飲料水として。

 

語源っていいなぁと。

 

恍惚として言葉に酔った夜でした。

 

本日もお付き合いくださり、うれしい限りでごさいます。

 

では、また。

 

 

 

 

 

 

彼我、矛盾

甘い飴しか持っていない人に辛い飴をくださいと言ったら、ありませんって言われた。

だから、私の欲しい飴はくれないけど、いつも違う味の飴をくれる人に出会ったのかもしれない。

近頃恋愛をする気がさらさらない。

恋愛をしようとおもっているうちは

永遠に出来ない気がするけど。

ひょんなことからなんて展開、あるのかしら...

 

どうも、彌生です。

愛なんて、恋なんてわかってたまるかって、

ずっと迷走していたい、そんな日々。

 

だから、

 

寂しくなると、恋をしたくなる。

恋愛映画を観ればさびしくなる。

 

それで、ふと気が付いた。

 

私にとって恋人は、

寂しさを満たしてくれる人間なんだと。

 

そんな気持ちで過ごしてきたものだから、

いつも1人になっちゃうのかしら。

 

 

寂しさで付き合った人間は

 

寂しくなくなったら、

必要じゃなくなる。

 

 

恋愛において恋人とはなんなんだろう。

 

きっと、

もっと寂しさというものと、

その瞬間を感じさせてくれる人間。

 

寂しさを紛らわしちゃくれない人間。

 

 

それが私の恋人。

 

 

もし恋人にやさしさを望むなら、

``世の中やさしさだけじゃあ、やっていけない``と

 

容姿飾りを望むなら

``人間、フィルターなしで見ればちゃんと動物なんだ``と、

 

お金を望むなら

``これはただの数字に過ぎない``と、

``君は同じ数字に値する温度があるのか``と

 

そんなことを言ってくれる人が恋人でしたっていう

オチもありなんじゃぁないかと、

そう思うのです。

 

人生に優しさなんていらないと気づいたとき、

新しく恍惚とした人間の着ぐるみをみつけたとき、自分で富を築いたとき、

 

すべていらなくなる。

 

すべていらないといわれる。

 

ほしいものは手に入れたら終わってしまう。

 

だから、それいるかな?

ってものをくれる人間こそ恋人に。

 

後できっと言葉にできないほどのものになる。

 

人に求めるものは自分に足りないもので、それを公言するのは

不足を丁寧に教えているようなもの。

 

好きな人間ですか。

自分と似た人かな、それでもって逆の人。

 

そういわれた日には、

 

どこか寂しくなって、

もっと、あなたを知って…

知れば知るほど

あなたにはなれないし、そうせざるを得ないんだといわれた気がして、

 

もう、あなたのための何者かになる必要がなくなって、

 

気が付いたら、

 

 

そういう人間のほうが案外自立していて惚れてしまいそうなものです。

 

追記

 

人間は気が弱くなると安心を求めるのだと。

そして、

他人に執着しては執着され、

共依存関係のできあがり。

 

もたれ合い傷のなめ合いの関係は時を止めてしまう。

愛するあの人の錘になり、錆び、奥底に沈んで、

 

何も見えなくなる。

 

だから自立しなくてはならないのだと。

 

 

それでも私たちは人間で、

相互依存なしには生きていけないのだと。

 

 

自立できている人間の特権が

相互依存なのだと痛感。

 

この寂しさを満たしてほしいと思ううちは

自立できていない合図なのかしら。

 

そんなことを思った数日でした。

 

本日も、

お付き合いいただきありがとうございます。

 

誰かへ

寂しさを与えられる人間になりたいものです。

 

それでは、また。

寄って、選って、酔わされて

 

2023.9.11


どうも、彌生です。

 

 

本日、本の街へ

 

幼馴染という肩書きを持ちながら、話したことのない人間とご飯にいきまして。

 

行きは地下鉄にて。

 

やっぱり、ホームの生ぬるい風と、独特な香りがたまらない。

 

本の街。

 

シャッターを切ることさえ禁ずられるような街。

 

 

茶店にて一息。

 

着飾らない店内と、着飾らない人間たち。

 

今回、私が惹かれた本の

文豪の云う細君は、悪妻よという台詞が刺さってしまいまして。

 

そう考えたら、世界のためにあなたを犠牲にする人間と、

あなたのために世界を犠牲にする人間がいたとして、

 

乙女達が後者に惹かれてしまうのも、同じ類の理由かしらと思いつつ。

 

珈琲ゼリーでございます。

 

その一言で再び喫茶店

 

あれは、どの果実のブランデーだったのかしら、

ブランデー香るくりーむと、酸味の効いたビターなゼリー。

 

珈琲ゼリーに酔わされて、頁をはぐる午後三時。

素敵な時間。

 

お邪魔しました。またいつか。

 

本日もお付き合いいただき嬉しい限りでございます。

 

それでは、また。

 

 

青、時々人生

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2023/09/07

どうも、彌生です。

 

最近、友人と香水を作りまして。

 

いずれ自分のブランドでも出したいものでございます。

そのときは、二度と忘れられない香りを届けます。

是非、そのときは宜しゅうお願いします。

 

さて本日、

パソコン不調。

 

無視したら、無視される世界に生きている。

 

だけど触れてほしくないものほどしがみつかれ根掘り葉掘り聞かれてしまうのね。

 

最近はニュースが多い。

最近増えたものではなくて

もともと多かったのだけれど。

 

幼かったあの頃に夢見た、きらきらした世界。

きらきらした人間たち。

その全てを疑わなかった時代、青かった。

歳を重ねて、無知な澄んだ青と引き換えにもっと多くの色を知った。

 

混濁して、もう最初の色には戻れなかった。

 

多くのことを知って、

心が沈んだ。

沈む度に青は混濁していった。

 

心が沈むとき、自分のことしか考えていなかったのだと無力になり、

こんな事で沈んでいては、

また知らない色にであったときに対処が出来ないと焦り、

また、無力になった。

 

もう何もしたくなくなった。

 

脳内では、YouTubeでみた切り抜きの

やる気の起こし方や有名な人間のありがたいお言葉や平和ボケだと叱ってくれるさまざまな映像が飛び交った。

 

それらが響いたなら良かったけど

当然私の気持ちは燃え上がる訳でもなくて、

ますます沈んでいった。

 

だけど、

今私が心を沈めたところで、やる気を出したところで、

 

何かが大きく変わるハズがなかった。

誰かが救われるわけでもなかった。

 

現実を知る度に沈んでいくのは

言い訳だったし、甘えだった。

 

色んな色を知って、それを混ぜたのは私だった。

 

色は別々のパレッドに置くべきだったかな。

 

今日はここまで。

曖昧なものほどまとめるのが難しいものですね。

 

お付き合いいただきありがとうございます。

また、このことについては追記出来ればなと思っております。

 

あぁ、人生を色に例えると何色でしょうか。

 

 

それでは、また。

 

 

自己愛、故に自己嫌悪【蛙化したみなさまへ】

2023.9.5

どうも、彌生です。

みなさん、九月はいかがお過ごしでしょうか。

 

私は、先週のスーパーブルームーンを観れず少しばかり後悔している日々です。

次回お目にかかれるのは三月だそうで、

14年後の予定が一つできました。

 

月光ってすごく心地いい、寂しい、時の流れがゆっくりに変わって、

あぁこのまま夜は終わらないんじゃぁないかなって気分になります。

 

さて、長くなりました。

今回の日記では蛙化の解釈が本来の意味と異なりますので、その点はご了承ください…

 

蛙化について綴っている理由はこちらの日記から↓

yayoi-sangatu.hatenablog.com

 

 

本日のお客様。蛙化したみなさまへ

 

蛙化しちゃう自分が嫌になる、そんな自己嫌悪に陥ってしまうみなさまへ

この人何かいってるやぁ程度に目を通していただければ幸いです。

 

さぁさぁ、私事ではありますが、少しばかりお付きあいください。

私も過去に恋人がおりました。

私から告白をして、めでたく三度目のデートを迎えた日のことです。

私のなかには、ドキドキなんていうかわいい効果音は響きませんでいた。

むしろ、気分が悪い。恋人のチュウも可愛いって言葉も触れる体温も全てに違和感がありました。あんなにも好きだったのに、あれ?嫌いだ。無理だ…

そうおもったんですね。

 

人生初、水族館デートの台本にはどの頁にも

‘‘別れたい。‘‘

その台詞しか見当たりませんでした。

 

デート中に別れを告げました。

恋人はぽかーんとしていました。

 

その後、家に帰った私は泣きました。大号泣。

 

私は屑だのごみなどと自分を罵りながら、わんわん泣きました。

私と同じ思考回路の方は、理由をお察しではないでしょうか。

 

恋人と別れたことに涙したのではないのです。

 

ただ、自分の幼さとちゃちな愛に情けない、と思って溢れた涙でした。

私の本気はこんなものだったのか

私の愛はこんなにも浅はかなものだったんだ、

 

そう、思ったんですね。

まぁ、本気とか愛してるとか、チュウだとか、当時16の私にはお似合いのフレーズですね。

 

これが私の最近耳にする蛙化の決定的な瞬間でした。

 

正直、蛙化した自分に嫌気がさしていました。

その時は私だけだと思っていましたが、案外、自己嫌悪に陥る方がいるものですね。

 

なんでこんな風に、人を簡単に嫌いになって傷つけることができるのか、

あぁ、最低だ。次の恋もこうなるんだろうな、

恋愛なんて無理なんだ。

 

そう思う方もいるのじゃないかしら。

ちなみに私はそういったタイプの人間でした。

 

でも、それでいいんですよ。

きっと自分自身を最低だ、屑だ、ゴミだ、軽い人間だ、

などと言って、負の言葉のシャワーを浴びることで、一方的に別れを告げたという罪悪感から逃れてる。

ある意味、自分自身を愛してるが故の自己嫌悪なんですよね。

 

気が済むまで、そう言い続けたらいいです。

 

とはいえ、こんなことを人前ではいうもんじゃないんですね。

友人は私に、

あなた自身をクズだとか言わないで欲しい。お願いだからやめて。

 

と言いわれました。

有難い言葉でした。

 

その日から、私のことを好きでいてくれた相手への敬意として、

自分をゴミだとかなんだとか言うのは控えようと思いまして。

 

自己愛ゆえの自己嫌悪は、

相手の人間選びの感覚を否定している気がするのです。

あなたを好きでいてくれた人や、今までの友人に

‘‘あなたは自称:屑・ゴミ人間を友人や恋人に選んだセンスの持ち主なのですよ。‘‘

と、告げているようなもの。

 

自称:屑・ゴミを好きでいただなんて知ったら

きっと相手は自身の感覚を疑います。

 

自己嫌悪をやめたければ、

自分を大切に思っている方への敬意として自分に優しくしてください。

あなたのことを大切に思ってくれる人がいなければ、

 

未来であなたを愛してくれる方のために。

 

それでもだめなのなら、あなたは重度の自己愛者なんだとおもいます。

私、自分を好きな人間は嫌いじゃないです。

 

誰かを愛する前に、自分の正しい愛し方を探してください。

 

私も、人やものの愛し方を模索中なのです…

愛し方を模索中だといっているうちは見つからないでしょうがね…

 

今日も、お付き合いいただきありがとうございました。

それでは、また。

 

 

追記

もしあなたが惚れやすいタイプなら、

一目見て、あぁいいな、と思ってすぐに行動することでしょう

期待と想像ばかりが膨らんですごく楽しい。

だけど結局、あなたの理想と違かった、なんて落ち。それの繰り返し。

 

そろそろその落ちに飽きませんか。どうでしょうか。

 

好きになりそうになったとき、

想い人を脳内で全裸にしてください

恋人を1人くらいは泣かせてますよ

トイレにも行きますよ

起こりますし泣きますよ

あなたに見せる一面がすべてじゃない

みんな人間です。

 

ちゃんと、想い人を人間として見てあげてください。

綺麗なものばかりじゃあない。

そこで、気持ちが覚めれば

 

それはもう、好きじゃないです。

 

理想をいっぱいにして行動する前に

現実の人間として相手を見てください。

 

それでも、許容できる人間こそがあなたの好きな人だと思います。